細川藤孝(細川幽斎)の生母は、三淵晴員の後妻である智慶院(清原宣賢の娘)。 この父・三淵晴員は、和泉守護である細川元有の子で、足利将軍側近の三淵晴恒の養子となっていた。 これにより、1573年7月に足利義昭が追放されると、三淵藤英も織田信長に仕えたが、翌年、所領を没収され、明智光秀預かりとなり、嫡男の三淵秋豪と共に切腹を命じられた。 各ページのリンク・紹介は自由で報告も不要です。 当サイトに掲載されている写真・画像、その他商品名・番組名などは、各社の商標・登録商標・著作物です。, 記載内容は可能な限り事実に基づき、公平になるよう配慮致しておりますが、史料自体の問題などもあり、中には誤認もあるかと存じます。 概要. →丹後・田辺城 約50日間籠城した細川幽斎の頑張り(舞鶴公園) 家臣に松井康之らが加わり、近江国の六角義賢、若狭国の武田義統、越前国の朝倉義景らを頼って足利義昭の将軍任官に奔走。 1585年の紀州征伐、1587年の九州征伐にも細川幽斎は武将として参戦しており、梅北一揆の際には上使として薩摩国に赴き、島津家蔵入地の改革を行っている(薩摩御仕置)。 7月に石田三成が挙兵すると、大阪の大名妻子を人質に取ろうとし、拒んだ細川ガラシャは屋敷に火を放ち自害。 また、細川藤孝の子である細川忠興が、細川幽斎は「伊豆守だか刑部の養子だったらしい」とも述べているが、この「伊豆守」は細川高久で「刑部」は細川晴広のことである。, 1546年、元服した際に、将軍・足利義藤(後の足利義輝)から「藤」の字の偏諱を受けて、細川藤孝(ふじたか)と名乗った。, 細川藤孝(細川幽斎)は、剣豪・塚原卜伝から剣術を学び、波々伯部貞弘・吉田雪荷から弓術の印可を得て、武田流の弓馬故実(弓術・馬術・礼法)を武田信豊(若狭武田氏の第7代当主)から相伝されたと言う。また、武野紹鴎に茶道を学んだと言い、当時最高の教養人であった。, 1552年には、従五位下・兵部大輔に叙任され、1554年には、養父・細川元常の死去により、21歳で細川家の家督を相続した。この年に、細川元常の養子になった可能性もある。, 1562年頃、若狭国熊川城主・沼田光兼の娘(沼田麝香、ぬまた じゃこう)を正室に迎え、1563年に嫡男・細川忠興が誕生。 →淀古城と淀城の違いや淀古城の戦い~茶々の産所となった淀城とは 攻囲軍の中にすた細川幽斎の歌道の弟子である八条宮智仁親王は、7月と8月の2度にわたって降伏勧告の使者として赴いたが、細川幽斎は会わずに2カ月間の籠城を継けた。 三淵 藤英(みつぶち ふじひで)は、戦国時代の武将、室町幕府末期の幕臣(奉公衆)。 異母弟に細川藤孝。 初名は藤之、のち藤英。「藤」の字は将軍・足利義藤(後の義輝)より偏諱を賜ったもの。. →弓木城 一色義定や一色義清の最後と鉄砲の名手である稲富祐直 このように西軍15000人の大軍に包囲され田辺城の戦いとなったが、正室・沼田麝香も具足をつけて戦うなど、細川幽斎が指揮する籠城勢は粘り強く籠城戦を継続。 →松井康之は丹波水軍の優れた大将だった~細川家の重臣 細川幽斎改名; 発生条件: イベント「乱世、再び」にて柴田勝家か羽柴秀吉を選択するorイベント「本能寺の変」発生済: 結果: 細川藤孝が細川幽斎に改名する: 備考: 明智光秀と兵士との会話 →天下分け目の山崎の戦い 明智光秀は遠慮して負けたか? →細川忠興~文武両道の名将として戦国の世を・・ 明智光秀は、関係が深かった筒井順慶からの協力も得られず、窮地に立つと山崎の戦いで羽柴秀吉に敗れて敗死したのだ。, 丹後で領地を争っていた一色義定に謀反の疑いが掛かると、一色義定(一色満信)を宮津城に誘い出して謀殺し、松井康之、米田求政らに弓木城を攻撃・陥落させた。 石山合戦(高屋城の戦い)、山陰方面軍・総大将の明智光秀の与力としても、黒井城の戦いなどで戦功を上げた。, 1576年10月、藤原定家の歌道を受け継ぐ二条流伝承者・三条西実枝から古今伝授を受けた。これにより、当時唯一の伝承者となり、近世歌学を大成させた文化人としても知られる。, 1577年2月の織田信忠、堀秀政、羽柴秀吉などによる紀州征伐には、嫡男・細川忠興が初陣。細川忠興は、額に一生残る傷を負いながらも、城攻めで一番乗りを果たし、織田信長より感状をもらっている。 自慢できるものはありませんが、資格は史跡訪問のための国内旅行地理検定2級、水軍研究のための小型船舶操縦士1級など。, いつもご高覧賜りまして、深く御礼申し上げます。 1599年の加藤清正・福島正則・加藤嘉明・浅野幸長・池田輝政・黒田長政らの石田三成襲撃に、細川忠興も加わっており、同年、細川家は丹後12万石に加えて杵築6万石が加増された。, 1600年6月、関ヶ原の戦いの前となる頃、細川忠興は徳川家康の会津攻めに参加する為、細川家の軍勢を率いて関東に出向いたが、その際、細川幽斎は三男・細川幸隆と共に約500で田辺城(舞鶴城)を守備した。 小野木重次は福知山城に撤退したが、ほどなく細川忠興・木下延俊らの軍勢に取囲まれ開城。細川忠興によって自刃させられ、首は京都三条河原に曝された。, 細川忠興は、関ヶ原の戦いの戦功により、小倉藩33万9000石+杵築6万石となり小倉城の改修を開始。この後、長岡姓を細川姓に戻し、以後、長岡姓は細川別姓として一門・重臣に授けられた。, 正室・沼田麝香は、細川ガラシャの死の影響を受けて、細川忠興の家臣・小倉入部の勧めもあり、洗礼を受けて「細川マリア」と呼ばれた。, 晩年の細川幽斎は、京都吉田で悠々自適な生活を送ったとされ、1610年8月20日、京都三条車屋町の自邸で死去。享年77。  →足利義昭とは~信長包囲網など外交手腕に優れた最後の室町幕府将軍 細川藤孝(細川幽斎)は生涯、側室・妾を持たず、その後も沼田麝香との間に細川興元、細川伊也、細川幸隆、於千、細川孝之、加賀子、小栗らが生まれているが、この婚儀は細川藤孝が28歳の時である為、沼田麝香は後妻(継室)と言う可能性もある。, 1565年の永禄の変で、将軍・足利義輝が三好三人衆や松永久秀に暗殺された際には、勝龍寺城(青龍寺城)にいた為、難を逃れ、兄・三淵藤英らと共に幽閉された足利義輝の弟・一乗院覚慶(後に還俗して足利義昭)を救出し、近江矢島にて還俗させた。 細川藤孝(細川幽斎)は、1534年4月22日、三淵晴員の次男として京都東山にて誕生した。この父・三淵晴員は、和泉守護である細川元有の子で、足利将軍側近の三淵晴恒の養子となっていた。 元首相の細川護熙氏は、この細川家の家系に連なる。, →細川ガラシャの悲しい生涯を知って頂きたい(明智珠、明智玉) | →三条西実澄 (三条西実枝) の解説 三条西公国の父 ご指摘賜れば、再調査の上、必要に応じて修正・加筆など行いますので、誤字・脱字のご指摘と合わせて、コメント欄よりご一報賜りますと幸いです。, 残念ながら当方の承諾を得ていない、記事の流用や成りすましサイト・動画などが見受けられ弁護士と対処を検討中です。他サイトご利用の際にはご留意願います。. →明智光秀の解説【麒麟がくる】数奇なその生涯 →細川藤孝(細川幽斎)には側室がいた可能性も?, (株)TOLEDO、高田哲哉と申します。 しかし、細川幽斎の討死と古今伝授の断絶を恐れた八条宮智仁親王は、ついに兄・後陽成天皇に奏請し、細川幽斎の歌道の弟子である大納言三条西実条と中納言中院通勝、中将烏丸光広を勅使として田辺城に送り、関ヶ原の戦いの2日前の9月13日に勅命により講和となった。 ブログを報告する, 大河ドラマ 麒麟がくる「衣装五行思想からの畿内戦国史展開予想」(続 1話視聴時点の妄想), 「じゃりン子チエ 文庫版10巻 感想 チエちゃん台詞キレッキレ」はるき悦巳先生(双葉文庫), 「海辺を行き交うお触れ書き 浦触の語る徳川情報網 感想」水本邦彦さん(吉川弘文館), 「共和制ローマの内乱とイタリア統合 退役兵植民への地方都市の対応 感想」砂田徹さん(北海道大学出版会), 「はしれギンガ」&「オーブとたびびとのふく」感想(あいうえお館のウルトラかいじゅう絵本より), 「Bloodstained:Curse of the Moon2 攻略の感想 ワイワイリスペクト」(インティ・クリエイツ). ゲームソフト「信長の野望・創造 戦国立志伝」の攻略wikiです。 戦国立志伝で追加された史実武将 ※例のサイトでなかなか追加されないので作ってみました。 Copyright ©   株式会社TOLEDO All rights reserved. ただし、次男の三淵光行は細川藤孝に預けられて、家臣に加わっている。, なお、細川藤孝は、山城桂川の西、長岡(西岡)一帯(現長岡京市、向日市付近)の領地を与えられた為、長岡氏を称し長岡藤孝と改名。 1577年10月、織田信長から離反した松永久秀が籠城した信貴山城を、織田信忠・明智光秀と共に落としている。, 1578年、織田信長の仲介により、嫡男・細川忠興と、明智光秀の娘・玉(細川ガラシャ)15歳が結婚。この時、織田信長の命により九曜を定紋とし、細川家の家紋となった。, 1579年には、織田信長の命により、細川藤孝・細川忠興・明智光秀らは丹後守護だった建部山城を攻めて一色義道を自害に追い込んだ。, 1580年、長岡家単独で丹後国に進攻するが、守護・一色満信の反撃にあい失敗するも、明智光秀の加勢を得て丹後南部を平定。 田辺城には小野木重次(福知山城主)・前田茂勝・織田信包・小出吉政・杉原長房・谷衛友・藤掛永勝・川勝秀氏・早川長政・長谷川宗仁・赤松左兵衛佐・山名主殿頭、他にも家臣だけを派遣した武将としては岡城主・中川秀成、豊後・高田城主である竹中重利らの手勢も含まれる。 その為、三淵藤英は弟・細川藤孝の襲撃計画を試みたが失敗し、足利義昭が槇島城に籠城すると、三淵藤英は二条城の城代となったが、織田信長の大軍に囲まれ、居城の伏見城に退き、織田信長勢の岩成友通を攻めるが、細川藤孝と柴田勝家の説得を受けて降伏した。 嫁いでいた細川藤孝の娘・伊也(お菊の方)は救出され、のち、吉田兼治と再婚しているが、この時、寝ていた細川忠興の鼻の頭に短刀を充て、怪我をさせたとも言われる。, 隠居した細川幽斎は羽柴秀吉(豊臣秀吉)に仕えると千利休・津田宗及らと共に重用され、1586年、在京料として山城・西ヶ岡に3000石を与えられている。 →志賀親次と岡城~荒城の月の舞台でもある見事な山城の岡城 1573年8月には池田勝正と共に、岩成友通を山城淀城の戦いで滅ぼし、以後、織田信長の武将として畿内各地を転戦。 →三淵藤英とは 足利義昭の擁立に尽力し最後まで再興を試みた幕臣 コメント欄で「河越夜戦シナリオで細川晴元失脚イベントが発生する」という情報を教えていただきました。, 以前紹介した松永久秀さん言行録とあわせて、大志のシナリオライターさんがどのような演出をされているのか一本の線で繋がったような印象です。, 信長の野望・大志の「松永久秀言行録②(永禄・金ヶ崎・忠臣・爆死等)」 - 肝胆ブログ, 義輝さんの人物像自体は従来シリーズと一緒で、剣技を磨き幕府再興に燃える武家の棟梁らしい描かれ方です。, 細川藤孝さんは「何言ってんだこいつ……(はっ! お任せくだされ!)」みたいな受け止め方をされています。, 信長さん以前の畿内史研究が進んでいなかった頃は、義輝さんは孤軍奮闘したけど非業の死を遂げた無念の英傑といったイメージで見られておりました。, 例の、畳に宝刀を何本も差して……という講談の影響もあって、義輝さんは実像がよく分からないまま高く評価されがちだったのです。, ところが、畿内史の実態がさまざま明らかになってきた中で、細川家も畠山家も三好家も国衆も幕府奉公衆もそれぞれがそれぞれの立場でいろいろ頑張っていたことが注目されてくると、「義輝さんの振る舞いは畿内の混迷を深めただけではないか」「統治者としてあんたは何をしてたんだ」「刀振ってる場合じゃないだろ」「奉公衆をちゃんとマネジメントしろよ」という感じに見られることが多くなってまいりました。, とはいえ、個人的にはこうした最近の評され方はやや反動的というか、今度は過小評価に振れてしまったような印象を抱いています。, とりわけ1558年の三好長慶さんとの和睦以後は、まさに上で藤孝さんが言ってはる通り、うまく三好家の力を活用できていたんじゃないでしょうか。, 1558年の和睦は、義輝さんにとっても長慶さんにとっても、お互いに勇気の要る決断だったと思います。畿内静謐を最優先した両者も、和睦を斡旋した六角義賢さんも立派ですよね。, マイナーな畿内史世界の中で、三好家がさいきんちょっと人気が出ている一方、義輝さんが単純な残念キャラに見られがちなのは、まだまだ研究過渡期だからこその現象ではないでしょうか。, 史実とか実像とかはいったん置いておいて、創作作品だしティーンエイジャーだしという感じに軽やかに眺めるのが正しい楽しみ方かと思われます。, 細川晴元さんを「邪知暴虐」「能無し」と断じた上で、お前は支配者の資格がないから自分が代わりて統治せんと言い切っております。, さりげない表現ですが、これらのイベントを通して長慶さんの危うさ、異常性が浮かび上がっているように私は思います。, 自分が去った後の三好家? 一門に実力者がいないなら他の実力者に委ねるべき。自分の家を例外にはしない。, なんだかんだで戦国時代でも家格や権威はものすごく大事で、建前であっても大半の人が家や血がもたらす秩序に服していたのです。, 統治者にとって、この長慶さんの本音ほど恐ろしいものはありません。後の秀吉さん⇒家康さん⇒秀忠さん⇒家光さん⇒……が全力で封印した下剋上ですよ。, いやさ三好家中にとっても長慶さんの本音は危険すぎます。家内安全とは真逆のスタンスなのです。, 長慶さんの超一級の実力があれば当座は秩序が成り立つかもしれませんが……。義興さんが存命ならば実力者から実力者への権力移行もできたかもしれませんが……。, ただ、見方にもよりますが、長慶さんの事績を辿って浮かび上がってくるのは確かにこうした人物像だったりもするんですよね……。, こうした長慶さんのS級危険人物な面をうまく表現し、主人公信長さんに至る流れへと繋げてくれた大志という作品。, ゲーム性の部分でいろいろ非難も受けていますが、歴史考証とシナリオテキストづくりの部分では大成果を上げてはると思いますし、私は感謝しています。, 長慶さんのような人が現れたのは、やはり畿内という環境が特殊だったからなんでしょうか。, 池田信正さん謀殺事件が取り上げられていました。まさか勝正さんより先に信正さんが注目されるとは。, むしろ、「近頃の三好長慶は持ち上げられすぎだ!」「細川家だって~~という成果を上げている!」「足利将軍の権力構造を単純化して語りすぎ!」みたいな多様な議論が畿内史研究で盛り上がって、新たな定説の形成に向かっていったらいいなと思っています。, かつて信長さん研究が受けた苦難……世間イメージ先行のバイアスに嵌まることなく、畿内史研究が着実素直に進展していきますように。, -----------------------------------------------------------------------------------------------------, trillion-3934pさんは、はてなブログを使っています。あなたもはてなブログをはじめてみませんか?, Powered by Hatena Blog この功により、1595年には大隅国に3000石を加増(後に越前府中に移封)。, 1597年8月28日、足利義昭が61歳で没すると、葬儀を執り行う者が誰もいなかったため、見かねた細川幽斎が葬儀を主催している。, 1598年、豊臣秀吉が死去すると、黒田官兵衛も同じくしたように、親交のあった徳川家康に接近。 20年以上戦国武将などの歴史上の人物を調査・研究している歴史人物研究家です。 智慶院は将軍・足利義晴から下げ渡された女性だった為、細川藤孝は、将軍・足利義晴のご落胤であると言う説もある。, 萬吉(まんきち)と言う幼名だった細川藤孝は幼少の頃、国学者・儒学者である母方の清原宣賢の元で教育を受けたとされる。, 1540年(7歳)の時、父・三淵晴員の兄にあたる勝龍寺城主・細川元常の養子となったとされるが諸説あり、将軍近臣の細川高久の養子とする説もある。また、縁戚の吉田兼見の記述によると、細川幽斎は淡路守護・細川晴広を父親だと語ったとされている。 →早川長政(早川長敏)とは~真田幸村とも共に戦った戦国末期の大名 その後、朝倉義景に仕えていた明智光秀を通じて、尾張の織田信長に助力を求めることになった。, 1568年9月、足利義昭を奉じて織田信長が上洛するのに従い、細川藤孝(35歳)は勝竜寺城(青竜寺城)を三好三人衆の岩成友通から奪還し、以後大和国や摂津国を転戦した。, やがて、足利義昭と織田信長が対立すると、兄・三淵藤英は足利義昭側についたが、細川藤孝は、1573年3月、上洛した織田信長に恭順した。 幕府再興プレイしてます。信長の野望・大志 無印 足利家でプレイをして、序盤の攻略法をまとめてみました。シナリオ1 「河越夜戦」1545年 「河越夜戦」大名:足利義晴難易度:上級歴史イベント:ありこの条件でゲームスタートです。とにかく金銭収入 三淵 藤英(みつぶち ふじひで)は、戦国時代の武将、室町幕府末期の幕臣(奉公衆)。異母弟に細川藤孝。初名は藤之、のち藤英。「藤」の字は将軍・足利義藤(後の義輝)より偏諱を賜ったもの。, 永禄8年(1565年)に第13代将軍・足利義輝が永禄の変で三好三人衆に暗殺されると、藤英は弟の藤孝と共に義輝の弟で一乗院門跡・覚慶(足利義昭)を、監禁されていた興福寺から一色藤長、和田惟政、仁木義政、米田求政らと共に救出し、擁立して近江国矢島にて還俗させる。そして越前国の朝倉義景を頼り、ついで織田信長を頼った。, 義昭が織田信長に擁立されて将軍となると、山城国で伏見城周辺の守備を命じられた。その後も南山城の軍勢を率いて和田惟政・伊丹親興と共に三好氏との戦いに参加する一方、政治にも手腕を発揮して義昭の重臣となる。永禄11年(1568年)に大和守に叙任。, だが、義昭と信長が対立した時に弟・藤孝が義昭を裏切り信長方に付いたことを知って激怒、藤孝の居城である勝竜寺城を襲撃する計画を立てるが失敗する。元亀4年(1573年)7月3日に義昭が挙兵するとこれに従った。義昭自身は巨椋池の傍にある槇島城に籠城すると、藤英は二条城を任されて、奉公衆の伊勢貞興らの他、日野輝資・高倉永相などの武家昵近衆などと共に籠城した。しかし、信長の大軍に囲まれると7月8日には藤英以外の主要な人物は皆退去してしまい、一人藤英とその軍勢だけが二条城に籠る事態となり、ついに柴田勝家の説得を受け入れて7月10日に降伏した。, 降伏後、藤英は居城の伏見城に戻ったが、その目の前にある槇島城が織田軍の総攻撃により陥落し(槇島城の戦い)、降伏した義昭は信長によって三好義継の河内国若江城に追放され、室町幕府は事実上滅亡した。これにより藤英も信長に仕えることとなり、早速、いまだに淀城に立て籠もっている義昭派の岩成友通を攻めるように信長に言われ、藤孝と共にこれを陥落させ8月2日友通を討ち取った。, 翌年、信長によって突如所領を没収されて明智光秀の元に預けられると、嫡男の秋豪と共に坂本城で自害を命じられた。, 次男の光行は藤孝に預けられてそのまま細川氏に仕える。後に田辺城の戦いにおいて、光行がよく叔父を助けたことを知った徳川家康に高く評価されて旗本として召しだされた。一方、弟の長岡義重は三淵の名跡を継ぎ、細川氏に仕えた。, https://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=三淵藤英&oldid=79733238. 信長の野望・大志の「松永久秀言行録②(永禄・金ヶ崎・忠臣・爆死等)」 - 肝胆ブログ 足利義輝像(剣豪将軍誕生) 1546年12月 征夷大将軍となった足利義輝さんと、側近の細川藤孝さんが仲良く会話 … →田辺城の戦い 細川幽斎の器量にて負け戦を勝ち戦に 細川藤孝(細川幽斎)は、1534年4月22日、三淵晴員の次男として京都東山にて誕生した。 同じころ、細川藤孝も信長の家臣となり、光秀の与力となっています。幕府では光秀よりも上にいた者たちが、こうして今度は部下となったわけです。 丹波攻めに際して →丹後・中山城 沼田清延(沼田延元)と女武将・沼田麝香も すると、織田信長の裁定により、丹後南半国(加佐郡・与謝郡)の領有を認められて細川藤孝は宮津城を居城とした。(北半国は一色満信の領国), 1581年9月には、明智光秀の仲介で、一色家の家督を継いでいた一色義定(一色満信)に、細川藤孝は長女・伊也を嫁がせた。, 1582年、本能寺の変が起こると、親戚で上役でもあり、親友であった明智光秀からの協力要請を断り、細川藤孝(49歳)は剃髪して幽斎玄旨(ゆうさいげんし)と号して田辺城に隠居し、家督と宮津城を嫡男・細川忠興に譲り、明智光秀の娘である細川ガラシャを幽閉した。 石井彦鶴姫は、1541年に肥前・飯盛城主である石井常延(石井兵部少輔常延)の次女として生まれました。…, 淀殿をご紹介する記事では、できる限り中立的な立場にて記載したつもりですが、父・浅井長政や、母・お市の…. 当時は貧窮して灯籠の油にさえ事欠くほどで、社殿から油を頂戴することもあったと言う。 古今伝授の奥義を収めた筥(はこ)を戦火に消失させないように宮中に送り、籠城戦を戦った話は名高い。, 結果的に、西軍15000は田辺城に釘付けとなり、9月15日の関ヶ原の戦い本戦に間に合わず、徳川家康が勝利。